キヤノン元知的財産法務本部長、日本ライセンス協会前会長 長澤健一氏に聞く
Diamond WEEKLY 事業部 編集チーム
記事掲載日:2026/4/27

キヤノン元知的財産法務本部長、日本ライセンス協会前会長の長澤健一氏
日本と米国がしのぎを削っていた1980年代から世界の特許出願件数は増え続け、2024年は372万件と過去最多になった。 そのけん引役は中国、欧州、インドなどの新興国で、とりわけ中国の24年の出願数は、2位の米国や3位の日本を大きく引き離し、180万件に達した。 一方、日本の国内特許出願件数は01年のピークから20年のボトムまで、3分の2程度にまで減少した。 特許をはじめとする無形固定資産が企業の成長力の源泉として注目される昨今、世界の成長に追い付けていない日本企業の姿が見える。今後、日本企業は知財戦略をどう考え、どう推進していけばいいのか。 日本の「知財経営」の旗振り役として提言を続ける、キヤノン元知的財産法務本部長で日本ライセンス協会前会長の長澤健一氏に話を聞いた。 (聞き手/Diamond WEEKLY事業部編集長 小尾拓也、嶺竜一、まとめ・撮影/嶺竜一)
※本記事は「ダイヤモンド・オンライン」より提供を受けて掲載しています。
――海外と比べ、日本の企業資産における無形資産(知財・ブランド・ノウハウ・データ・人材など)の割合は相対的に低いです。 世界の企業価値における無形資産の割合は7割程度あり、米国S&P500企業における無形資産の割合は9割を占めていますが、日経225企業の無形資産の割合は3割程度しかありません。日本企業の経営層からは、「知財戦略が経営戦略の重要課題であることはわかっているが、 どのように取り組んでいいのかわからない」という声がよく聞かれます。彼らの知財戦略に対する考え方や組織構造は、どこに課題があるのでしょうか。
長澤 日本企業の多くが知財戦略の重要性について、本当の意味で理解し切れていないのだと思います。日本企業の知財戦略が外国企業に比べて弱いといわれる理由は、知財が経営の中心に組み込まれていないこと。 その理由は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代から「ものづくりで勝ってきた」という思考から完全には抜け切れていないことにあると思います。
日本企業の技術は今や世界に多くが流出していますが、技術の擦り合わせや、ものづくりの現場における実装や生産においては、 いまだ世界トップにいると思います。その点で、日本の無形固定資産の割合が相対的に低いことは、単純に悲観するべきことではなく、ある意味当然のことです。 経営上は何とかできている状況もあって、「ものづくりで勝っている」という文化や思考から経営トップが抜けられていないように思うのです。
長澤 たとえば、多くのものづくり企業において、知財を扱う部門は、元々は特許部であり、特許部は大抵R&D(研究開発)部門の下にあります。 あるいは、知財は訴訟や契約に絡むことから法務部の下に置かれている会社もある。つまり、経営戦略に直接関係のないところで、いまだに「技術の権利化を担当する部署」程度の扱いにとどまっていることが多いようです。 「知財戦略を経営戦略と一体的に考えるべき」だと言われながら、知財部門は会社全体を見ることができず、経営的価値に踏み込んだ判断ができない状況に置かれているケースが多いのです。
そうした組織では、「特許を何件出願したのか」「何件登録できたのか」「どれだけのライセンス料を得たか」といったKPI(重要業績評価指標)のみが重視されてきました。 確かに多くの特許を保有すればライセンス料は期待できますが、それだけのために知財部門があるわけではないのです。
――長澤さんはキヤノンの知財本部長や経営陣として長らく同社の知財戦略を牽引されました。キヤノンは日本企業の中では長年特許出願数1位を競っています。 現在、企業の有効特許件数ランキングでは、1位が韓国のサムスン電子、2位が中国のファーウェイ、3位が日本のキヤノン、4位がパナソニックHD、5位がトヨタ自動車です。キヤノンが知財戦略に力を入れてきた理由は何でしょうか。
長澤 キヤノンが1968年にゼロックスの特許を使用しない最初の複写機を発表した際、ゼロックスはキヤノンの製品を差し止めするために動きました。 巨額の設備投資もしているし、「万一差し止めされて複写機ビジネスができなくなったら会社がもたないかもしれない」というところまで、 追い詰められた過去があります。結果として複写機ビジネスを立ち上げることができたという経緯があり、この経緯が、キヤノンが知財を重要視するルーツです。 時の特許本部長は、その後、知財責任者として、初めての専務取締役になり、それ以後の知財責任者も役員を務める文化を作りました。
重要なのは、出願件数が多いからといって、知財戦略が優れているわけではないということです。経営方針はほとんどの場合中期経営計画で策定されますが、知財部門の仕事は中期経営計画よりも先を見ること。 たとえば10年以上の長期の経営戦略を考え、それに応じたR&D戦略を踏まえて、既存事業・新規事業をどうするかといった長期経営の方向性を理解した上で、その方向に資する特許、商標、意匠の権利化、 ライセンスや訴訟戦略といったものを考えるのが、本当の意味での知財の仕事なのです。 経営戦略の中に溶け込んでいない知財戦略は、十分に機能していないと言えます。
――海外企業と比較して、日本企業の知財戦略が弱いと感じるのは、具体的にどんなところでしょうか。
長澤 まずは組織体制の違いです。欧米では知財のトップはCIPO(最高知的財産責任者)と呼ばれ、CEOやCTOと同じテーブルで議論するのが当たり前です。 私がキヤノンの知財本部長時代に交渉した米国企業の相手は大抵EVPかSVP、日本でいう専務・常務クラスでした。しかし、日本企業の知財トップの多くはいまだに部長クラスです。 中国でも30代の知財責任者がいきなりEVPになるケースがある。報酬は日本の知財トップとは2倍~10倍以上違います。 そのため日本の知財担当者が海外企業にヘッドハンティングされるケースも多々あります。海外企業は当然、優秀な日本の知財人員で、日本企業の技術を知っている人が欲しいでしょうから。
もう一つ考えるべきことは、“三方よし”的な文化です。米国や中国の企業は、徹底的に知的財産の法的権利を主張するし、訴訟を辞さずに容赦なく責めると思います。 しかし、日本企業はできれば「和解で穏便に」となりがちで、なかなか権利行使に踏み切れないし、裁判所も和解勧告が多いと感じます。それが日本の文化の美しいところでもありますし、 交渉での解決は本来望ましいのですが、厳しい国際競争で勝つには果敢な権利行使も必要でしょう。米国から送られてくる契約書案でも、 売買契約にサインしたら多くの知的財産権をライセンスしてしまうような条項が入った契約が散見されます。それらの条項を見極め退けられるくらいの知見は最低限必要です。
――国際競争力としての知財の重要性は高まっています。日本政府も、新たな枠組みとして「知的財産推進計画2025」を策定し、 企業価値の源泉を有形資産から無形資産へと移す国家方針を示しました。 長澤さんは内閣府の知的財産推進事務局の委員も務め、国の知財政策に関わってきました。「日本の知財」が国際競争力を向上させる上でのポイントはありますか。
長澤 諸外国と比べると、日本企業は人事的な慣習により、知財戦略の責任者が短期間で交替することも多いため、長期的な知財戦略を腰を据えて考えることが難しいという側面があるかもしれません。 日本の特許庁長官も毎年のように替わりますし、企業の知財責任者を2年おきに替えるようなケースもあります。

長澤 特許権は出願の日から20年の権利期間がありますし、知財戦略は本来、10年以上先を見て考えるべきです。 組織にとって定期的な人事の刷新は大事ですが、知財など特定の分野においては、例外的な組織運営を考えてもいいと思います。
また、膨大な案件を扱う日本企業の知財部門でも、他国に比べてDXが進んでおらず、業務の効率化に課題を抱えるケースも多く見られます。 こうした現場ではITツールの導入などを検討すべきですし、すぐにでも生成AIの活用を視野に入れるべきです。
ただし、AI活用には注意が必要です。特許出願の明細書などを、AIを使って作成するのはいいのですが、明細書そのものが「よく書けている」と感心しているだけではダメです。 たとえば、「どの競合がターゲットなのか」「解決する場合には交渉か訴訟か」などの活用法によって、特許請求の範囲を広めに書いて多くの会社が抵触するようにするのか、 狭くして無効の抗弁を排斥し訴訟で絶対に負けないようにするのかといった事業戦略、経営戦略と照らし合わせて、AIの作った明細書を手直しできる人材が、これからは特に必要です。
基本的にAIは、公知の情報やユーザがインプットした情報を集めて最適化を図っているので、世界中の訴訟情報や判決の傾向などを反映させることはできるかもしれません。 しかし、特許を扱う業務では公知になってない情報、人から聞いた情報や、業界の動向、海外の傾向、自分だけが持っている知見などを駆使することが必要です。 AIは駆使するが、戦略に応じた権利の取得や活用はあくまで知財人が決めるという意識が必要でしょう。
――中小企業やスタートアップには、イノベーションによって日本の知財戦略を盛り上げる役割が期待されています。 しかし、独自の経営体制や技術開発が光るケースはまだ少ないのが現状です。中小企業やスタートアップの知財戦略はどのように考えたらよいでしょうか。
長澤 中小企業やスタートアップのCEOが正しく知財の認識をしている会社は強いと感じます。 私が会長を務めていた日本ライセンス協会の中にも、ベンチャー・スタートアップワーキンググループがあります。 企業の中に知財担当者がいないのでCEO自身が来られるケースも多いのですが、そうした企業は知財への認識が高いと感じます。
長澤 重要なのは自社のコアコンピタンスを掴むことです。前述のように、日本企業は長年「ものづくり」で勝ってきた歴史があり、コアコンピタンスを“技術そのもの”と考えすぎる傾向があります。 しかし実際は、コンテンツ、調達力、ブランド、人材の技能といった、技術とは全く違うケースもあります。それを理解せず、むやみに技術を特許化することで、逆に他に技術情報を公開するだけになってしまうことすらあります。
――企業が経営戦略と知財戦略を結び付けて「知財経営」に踏み出し、競争力を向上するためには、 どんな考え方や方法論が必要でしょうか。
長澤 大前提として、企業トップに「知財部門は特許の仕事だけではなく、経営そのものに資するべきだ」と腹落ちさせることでしょう。中期経営計画よりもさらに先、10年後、20年後の事業構造がどうなるのか。 その長期の経営戦略を前提にして、R&D戦略、事業戦略を描き、そこから逆算して知財戦略を組み立てていく。知財トップはそのための戦略パートナーであり、経営メンバーであると考え、経営戦略を考えるチームの中に置くことが大事です。
そして知財担当者は、経営企画、事業企画、調達、ブランディングといった他部門の関係者と横断的に関わり、プロジェクトや委員会を通じて経営視点を持つことが必要です。 ブランド戦略やコーポレート・ガナバンス・コードの報告書づくりに知財担当者が関与するのも、非常に有効です。そうすることで、経営に近いところで話ができるようになります。
知財部門のトップは、組織を経営に近付ける努力をするべきであり、その方法は3つあります。もし知財トップが役員またはそれに近い立場であれば、 経営トップを巻き込んで対話をする「巻き込み型」が有効。知財トップがその立場にないのであれば、経営を動かせる役員に知財活動を深く理解してもらい、二人三脚で経営を動かしていく「抱きつき型」が有効です。 そもそも知財部門の組織レイヤーや認知度が低く、前述のどちらも難しい場合は、事業企画、本社管理部門、 新規事業部門などの管理職レベルに声をかけ、組織を横断して知財に関連するテーマでプロジェクトやワーキンググループを行うといった「ボトムアップ型」が有効です。
経営の中枢に入り込み、時には事業部や役員と衝突してでも知財の視点を経営にねじ込む。知財責任者のそうしたリーダーシップがあって、 企業の知財部門は初めて「コストセンター」から「競争力の源泉」に変わるのだと思います。